Radiation Emergency Medicine Training WEBSITE
緊急被ばく医療研修のホームページ

アンケート
サイトポリシー   サイトマップ
英語版
TOP 資料・ビデオ 研修会 地域の情報 FAQ 用語集
用語検索  

特集:緊急被ばく医療・チェルノブイリ事故を考える

チェルノブイリ事故発生時の医療活動

重松逸造

(財)放射線影響研究所
名誉顧問 重松 逸造
(元 国際チェルノブイリ諮問委員会委員長)

背景

東西両陣営がまだ厳しい冷戦下にあった1985年11月、両陣営を代表するRonald Reagan米国大統領とMikhail Gorvachevソ連書記長がジュネーブではじめて主脳会談をもつという画期的な出来事がありました。しかし、この時は目的の軍縮協定には至らず、代わりに文化協定が両国間で結ばれました。この協定に基づいて、翌1986年4月よりソ連エルミタージュ、プーシュキン両美術館の印象派および後期印象派絵画の特別展覧会がワシントンDC、ロサンゼルス、ニューヨークの3都市で開催されました。

この開催の世話役が、当時西側より鉄のカーテンに通ずる唯一のチャンネルといわれていたDr.Armand Hammer(米国オクシデンタル石油会社会長で医師)で、彼はReagan大統領が設置したがん特別諮問委員会委員長も務めており、若い時はソ連創設者のNikolai Leninに可愛がられたといわれています。ワシントンDCでこの展覧会が開催されていた1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所(原発)事故のニュースがDr.Hammerのもとに飛び込んできたわけです。

ソ連政府は事故の事実をすぐには公表せず、西側諸国に事故発生が知られるきっかけとなったのは、スウェーデンのフォルスマルク原発周辺で高いレベルの放射能が検出されたことによります。Dr.Hammerは早速に支援活動を開始、まず骨髄移植の専門家であるDr.Robert P.Gale(カリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センター)をモスクワに派遣しました。さらに、Dr. Hammerは7月はじめに米国内外の放射線専門家10数名(含筆者)をロサンゼルスに招聘して事故の支援方法に関する協議を行い、その結果をDr.Galeがモスクワに持参しました(写真1)。

写真1 Dr.Hammer(右)とDr.Gale(1986年6月Dr.Galeの研究室にて)
写真1 Dr.Hammer(右)とDr.Gale(1986年6月Dr.Galeの研究室にて)

要するに、事故発生当初はすべてが鉄のカーテン内の出来事で、その時の医療活動を直接目にした西側の人はDr.Galeだけということになります。したがって、ここで述べる事故発生時の医療活動は、もっぱらソ連側の報告に基づいていますが、ソ連が放射線事故の医療に関して経験が豊富だったことは事実です。(例えば、1950〜85年の事故件数133件のうち、死亡を伴う事故15件、死亡者数は27人で、被ばく者専用病床が後述する第6病院内にあります。)また、当時は極秘とされていた情報もその後のグラスノスチ(情報公開)の進行でオープンになっているので、この点からもソ連側報告の信頼度は高いものと考えています。

ここでは、数多い報告のうち事故時に医療の最高責任者であったDr.Leonid A.Ilyin(1984年よりソ連医科学アカデミー副総裁、それまではソ連保健省生物物理学研究所長)と初期の入院治療を担当したDr.Angelina K. Guskova(ソ連保健省第6病院内の前記研究所放射線医学センター診療部門責任者)の報告など1)-3)を中心に述べることにします。

事故発生時の医療活動

チェルノブイリ原発は1〜4号炉が稼動しており、5、6号炉は建設中でしたが、事故は1986年4月26日(土)午前1時24分、2回の爆発と共に4号炉において発生しました。発電所の緊急医療部門は、3km離れた従業員居住区のプリピャチにあり、4月25日夜の当直医はDr.Valentin P.Belokonでした。事故発生後、数分以内に発電所から医療職員派遣要請の電話があり、医療助手1名が発電所に行ったところ、熱傷患者がいるので医師が必要とDr.Belokonに電話で報告(午前1時40分頃)、彼は直ちに運転手と共に発電所に出発、救急車2台も派遣しました。

午前1時50分頃にDr.Belokonが到着した時は、作業員1人が4号炉建物の崩壊で圧死しており、彼が現場で最初に診た患者も全身の熱傷と打撲で26日の朝に死亡しました。その他の患者(発電所の作業員や消防士など)はいずれも共通の症状を示しており、頭痛、頚部リンパ節腫脹、のどの乾き、悪心、嘔吐などで、これらの患者はすべてプリピャチの病院に移送されました。孤軍奮闘したDr.Belokon自身も26日午後6時頃には不快感が増強してきて、後にモスクワの第6病院に移送されることになります。

事故発生時に発電所の現場にいた人の数が後に発表されていますが、それによると1〜4号炉の従業員176人、5、6号炉の作業員268人、警備員23人の計467人で、このほか事故発生後救援にかけつけたのは、まず消防士が3分後に14人、11分後に10人、その後26日午前8時までに69人の計93人、1〜4号炉従業員が507人、警備員が113人、医療関係者が10人と総数では1,190人となっています。

ところで、事故発生に対して政府はどう対応したでしょうか。事故後2時間弱を経過した26日午前3時15分に保健省より第6病院放射線医学センターに熱傷患者の発生と放射線被ばくの可能性がある事故について電話があり、同日午前6時40分にはかねてより編成されていた生物物理学研究所の緊急被ばく医療チームが第6病院放射線医学センターに集合、原子力技術省のチャーター機で現地に行く準備をすると共に、医学センター診療部門への患者受入れ態勢の整備を行っています。

この診療部門は第6病院の2階にあり、病床120床の病室と無菌室2部屋の構成ですが、線量測定装置や除染設備がなかったため、急遽研究所より補充されました。また、紫外線照射装置を入れた臨時の無菌室なども準備され、患者の受入れ態勢は27日中に完了しています。一方、緊急被ばく医療チームは26日午後2時30分にプリピャチに到着、直ちに入院患者を診察して放射線障害のレベルによるグループ分けを行いました。その結果、重症患者はモスクワの放射線医学センター、軽症患者はキエフの病院にそれぞれ緊急入院させることになりました。

モスクワへは、キエフより2機の飛行機に分乗して、それぞれ84人と45人、計129人の重症患者が4月27日中に放射線医学センターまで搬送されました。その夜遅く、Dr.IlyinとDr.Guskovaは全員の病室を回診して、悪心、嘔吐、下痢、皮膚発赤などの症状から、30人は致死線量を受けていると判断しました。また、多くの患者が体表面のかなりの範囲に高線量被ばくによる皮膚充血の所見を示しており、放射線熱傷も過半数の患者に認められました。プリピャチ病院での患者選別で軽症とされた約170人は、140km余離れたキエフの病院に移送されています(写真2〜4)。

写真2 モスクワ第6病院放射線医学センター診療部門内病室廊下
写真2 モスクワ第6病院放射線医学センター診療部門内病室廊下

写真3 写真2の病室内
写真3 写真2の病室内

写真4 被ばく作業員(脱毛とベータ熱傷)
写真4 被ばく作業員(脱毛とベータ熱傷)

モスクワとキエフの入院患者約300人のうち、急性放射線症と診断されたのは134人(モスクワ108人、キエフ26人)で、うち28人が96日以内に死亡しています。表1に症度別の患者数と死亡者数、死因などを示します。これによると、半数致死量(LD50)が6.5Gy(グレイ)以上であり、広島の原爆被爆者の場合の2.9Gyや教科書にある4〜6Gyよりも高い線量ですが、性磁年齢、体格、栄養状態、治療方法などの条件を考慮する必要があります。また、4Gy以上の被ばく者で骨髄障害が回復しないと判断された13人にはDr.Galeによって骨髄移植が行われましたが、ほとんど効果がなく、うち11人が死亡しました(写真5)。

写真5 骨髄移植手術(左より3人目がDr.Gale。モスクワ第6病院にて)
写真5 骨髄移植手術(左より3人目がDr.Gale。モスクワ第6病院にて)

その後の状況

上述した急性放射線症の入院患者134人中、1986年9月の時点でなお在院していたのは14人(モスクワ3人、キエフ11人)であり、1987年1月には5名がキエフの病院に残っていました。急性放射線症より回復した106人を1998年までの12年間追跡した結果によると、11人(10.4%)が死亡し、その内訳は症度別にT度が3人(7.3%)、U度が5人(10.2%)、V、W度が3人(18.8%)と症度と共に死亡率が高くなる傾向がありましたが、これらの死亡率が急性放射線症を発症しなかった被ばく者や非被ばく者に比べてどの程度高いかを判断するには、年齢構成を揃えた対照者について同様の調査を行う必要があります。

1986年10月、ソ連保健省はウクライナのキエフに全ソ放射線医学研究センターを設立し、2,000人規模の陣容でチェルノブイリ事故の保健医療面における総合的な対策拠点とする構想を発表しましたが、これは広島、長崎における原爆被爆者の調査研究体制を想定してとのことでした。1987年1月、広島を訪れたソ連保健省の調査団(団長:Dr.Galeのソ連側カウンターパートであったDr.A.I.Vorobjov医師高等訓練中央研究所血液学部長)も、このセンターを通じて広島、長崎の教訓を事故対策に生かしたいと抱負を述べていました。しかし、この頃よりソ連内では前述したグラスノスチやペレストロイカ(経済改革)が急速に進行し、やがてはベルリンの壁の崩壊(1989年11月)に続いてソ連の解体(1991年12月)に至るわけで、チェルノブイリ事故対策もウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦の3共和国に分散して実施されることになったわけです。

終わりに、冒頭で引用した参考文献には、今回の事故における緊急被ばく医療の経験や教訓が詳しく述べられていることをつけ加えておきます。

表1 急性放射線症患者の事故後4ヶ月以内の死亡状況
症度 線量(Gy) 患者数(人) 死亡者数(%) 死亡までの日数
最小−最大
(平均)
主な死因
T(軽度) 0.8-2.1 41 0    
U(中等度) 2.2-4.1 50 1(2.0) 96 感染症(※)、皮膚障害
V(高度) 4.2-6.4 22 7(31.8) 16-48(24.6) 熱傷、放射線熱傷、感染症(※)
W(高々度) 6.5-16.0 21 20(95.2) 10-91(27.4) 皮膚および腸障害
0.8-16.0 134 28(20.9)(※※) 10-96(29.8)  


※   骨髄障害による。
※※ このほか、事故発生時に2人が爆死、1人が事故処理作業終了後、バスの中で冠動脈血栓症のため死亡。したがって、死亡者合計は31人となる。


参考文献
  1. Ilyin, L.A. Chernobyl:Myth and Reality (translated from the Russian), Megapolis, Moscow, p.1 - 398, 1995 日本語訳:重松逸造、長瀧重信(監訳)、チェルノブイリ:虚偽と真実、長崎・ヒバクシャ医療国際協力会、長崎、p.1-466, 1998.
  2. Guskova, A.K. and Gusev, L.A. Medical Aspects of the Accident at Chernobyl, In: Gusev, L.A., Guskova, A.K. and Mettler, F.A. (Ed), Medical Management of Radiation Accidents (2nd Ed.), p.195-210, CRC Press, New York, 2001.
  3. Mould, R.F. Chernobyl Record, Institute of Physics Publishing, Bristol, p.1-402, 2000.


 本ホームページは、 文部科学省 の委託事業として、(財)原子力安全研究協会が運営しています。 リンク集  お問い合わせ先